絵画用膠情報
リンクをたどりやすいように、ここにまとめておきます。
(1)三千本膠の生産終了
(2)三千本膠の生産終了 つづき
(3)
(4)
(4)の補足
(5)
(6)膠文化研究会と第1回ワークショップ
(7)月刊美術に寄稿しました
(8)「美術の窓」4月号に寄稿、膠研の産地調査を実施しました。
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蕪村の描いた芭蕉
Wikipediaより
大学に勤めて長い年月が経ちます。教える立場になっても、自分の世界を求める創作という営為からすれば、今もひとりの絵描きであるに過ぎません。
それにしても、こうした職場にいたことで多くの後輩、教え子たちと縁を結ぶことができました。
その活躍ぶりは折々に届く個展やグループ展の案内や、最近ではネット上の情報でも舞い込んできます。
それらを通して伝わってくる、目を見張る成長ぶり、変貌、そして地道な歩み。時には子育てを卒業して復帰してくるママ作家、あるいは病気を克服して再び筆を執ったという者もいます。それぞれの道のりに思いを馳せます。
逆に気になる動向が目に入ってくることもあります。
今の流行でもあるでしょうし、画商界やメディアも持ち上げるのですから否定する気はありませんが、しばらく作品を見ていなかったと思ったら、急に大和絵や琳派、あるいは大正期の日本画など、そのスタイルだけを身にまとった作品で注目されていたりするのです。
どのような作品でも、先人の作品に影響を受けない作品はないでしょうし、それも文化の厚みと考えることができます。
全くの無から自分の世界を生み出すことなどはできませんし、過去の作品から得ることがあればそれは立派な学びだと思います。
しかし、自分の表現を求めて迷い、苦闘していた姿を知っている者が、今、涼しい顔で琳派の焼き直しのような作品を発表していたりすると、複雑で、寂し少しい思いがよぎります。
そこに至るまでに彼らなりの逡巡があり、必然があったと信じていますが、評価の定まった様式に依存することは、それなりの責任と、そして安易さに対する危険を背負うことになります。
創作活動を続けるだけでも大変です。こうした作家もまたどこで新たな成長を遂げるか分かりませんので、長い目で見たいとおもいます。
芭蕉の「柴門の辞」にはよく知られた次の言葉があります。
「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」
老婆心とは知りつつ、また自らの戒めとして書き留めておきます。
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ドメインを変更したのに伴い、ブログを一新、といきたかったのですが、慣れないことで時間切れということもあり、少しだけリニューアルです。結果的にあまり変わり映えしないのですが。
というわけですので、ブックマークの変更をお願いします。
昨年の5月4日にブログを開設しましたので、1年が経ちました。なんともマイペースな更新ですが、なんとか続けることができました。
普段からメモをいくつも作り、少しでも時間があるとそれをまとめる形で記事にすることが多いので、なかなかタイムリーなブログというわけにはいきません。
ブログなどという面倒なことを始めたのは昨年の東日本大震災を経験して思うところがあったからです。
もうひとつの理由は、若い人に伝えたいことを書き残そうと思い立ったからでした。
ブログを続けるについては、自分なりにいくつかの決まりごとを考えました。
「できれば」政治的なことはあまり書かないこと。
しかし、今ほど政治に関心を持たねばならない時代もないでしょう。無党派層が毎回選挙を大きく動かします。郵政、社会保障、政権交代、と大衆の気まぐれ、付和雷同にはやはり違和感を感じます。どうしても少数派としての意見を言いたくなった時は書くと思います。
もうひとつは評論はしない、ということです。
注目されないブログとしての気楽さはありますが、やはり言葉がひとり歩きすることはあると思います。そこは責任と慎重さを持って記事を書いてゆきたいとおもいます。
アクセスも15,000ヒットを超えたところです。
相変わらず泡沫ブログには違いないのですが、時々のぞいてくださる皆さんありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
お願いついでにコメントもお寄せくださると幸いです。
お手柔らかにお願いします。
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前回、宮古の街を歩いたのは30年近く前、まだ私は大学院を出たばかりでした。遠野を経て釜石で海に出会い、そこから三陸海岸を北上して宮古、盛岡周辺を訪れたと記憶しています。迷い多い若い日の、スケッチをしながらの旅でした。
先日、盛岡市内のデパートで震災遺児を支援するチャリティー展が開催されたことから、そのお手伝いでようやく再訪することができました。
東北入りした日は気温が一気に25度近くに達する陽気でした。
薦められるままに展覧会場近くの有名な石割桜も急ぎ足で見てきましたが、この暑さで開花が急に進んだようで、7,8分の咲き具合でした。盛岡城址の周囲にある桜も満開までほどない様子でした。なだらかな石垣に薄紅の花がよく映えます。
会場で待っていたのは洋画のF先生。お嬢さんを描いた無垢な少女像が印象的な作風で知られる作家ですが、中央の画壇とは距離を置き、盛岡郊外で自然と共生する生活を送ってこられました。そのモデルだったご息女も一緒でした。
清楚な画風からどんな方かと思っていましたが、なんとも気さくな、そして純朴な方でした。一面、他の作家とのつき合いもあまりなく、そこには一徹な生き様も垣間見られるのです。
会場当番を終えた日は、夕食に誘っていただき、和やかな家族の輪に加えていただきました。F先生の、画家としての厳しさを貫きながらも、盛岡の自然のように穏やかで優しい人柄に、是非再会の機会を持ちたいと思ったものです。
盛岡から宮古へは2、3時間に1本というローカル線の山田線があります。2時間ほどの列車旅でした。
言うまでもなく、宮古も震災時の津波で大きな打撃を受けています。しかし、宮古駅前にその爪痕らしき光景はなく、どこにでもある平和な地方市街の佇まいでした。ちょうど、週末に運行する浄土ヶ浜行きのシャトルバスが出ていたので、これに乗り込みました。

ボンネット型のシャトルバス
バスが港に近づくと、ほとんどが土台を残すだけの地域が続き、以前のにぎやかさを思い出そうとするのですが、かすかな記憶の彼方からそれを呼び戻すことができません。
車窓から見る限り震災直後の報道で見た瓦礫はきれいに片付けられていました。それがどこかに山積みになっていることはF先生からもお聞きしていましたが、初夏のような明るい陽光の中で、この長閑な海辺の小都市に襲いかかった黒々とした戦慄を想像することは難しいことでした。
バスにガイド役として同乗していたお嬢さんは、港の小さな漁船を指して、さっぱ船と呼ばれていることを説明しながら、全て津波で流されてしまったが、少しずつ増えてきて漁師さんの姿も見られるようになってきた、と言います。
ほどなく浄土ヶ浜を見下ろす駐車場に着きました。多くの車が停まっていましたし、観光客の姿もそこそこ見られます。一部、未だに通行止めになっている所もありましたが、私はかつても歩いた道を辿りました。
浄土ヶ浜は海岸沿いの景勝地ですので、津波をもろに受けたはずです。周囲の山の斜面には津波で引き倒され、その後伐採された木の切り株がそこここに見られましたので、一体どのような姿になったのかと、半ば心の準備をしていたのですが、視界に入ってきたそれは、以前と変わらぬ姿でした。
白い小石が描く美しい汀線も乱れなく、覗きこむと水底も透き通ったままでした。
無論、津波に削り取られた斜面の樹木や土砂、あるいはむしり取られたアスファルトなどがこの白い汀を埋めていたことは想像に難くなく、この美しさを取り戻すには大変な労力を要したはずです。
被災地から遠い私は、あれほどの大災害の後で生活再建こそ最優先で、有数の観光地と言えども当面放置されるのではないかとも思っていました。しかし、被災地こそ、このような地域の名勝の早い復旧を望んでいたことにも気づきました。
さきほどのバスガイドのお嬢さんも、観光客も少しずつ増えてきて、やっと明るさが戻ってきた、と思いを語っていました。私たちは元通りに生活を始めようとしている、それを知ってほしい、見に来て欲しいとの気持ちが伝わってきます。そのために浄土ヶ浜の再生も念願だったのでしょう。
バスに乗り込んでしばらくは窓際でカメラを構えていましたが、震災の痕跡を写すことはやめました。
土台ばかりになった街並みの中に、早くも新しい建物が立ち始めています。生活があるのだからとどまってはいられないという、生き延びてゆく人たちの強さを感じます。
宮古の海沿いの平坦地の道はやや複雑で、幅も広いとは言えません。高台まではかなりの距離があります。次の災害に人的な被害を出さないためには、いざという時避難しやすい整備された道路も必要でしょう。私有の財産権などとの絡みで復興計画も容易ではないのでしょうが、今回の大きな犠牲が教訓として活きるのか、気になります。
近くの湾内には大きな堤防の一部が倒壊して流れ込んだままになっていました。地元の人は1000トンを超える建造物も津波には持ちこたえられなかったが、浄土ヶ浜の自然は少しも傷つかなかったと言います。
もともとその岩肌、渚は浮世離れした不思議なほどの白さでしたが、震災を経て一層白さと清浄さを増したようにも見えるのです。
再び山田線で盛岡へ。この日も桜の開花はさらに進んだようで、万朶の桜花が車窓に映るたびに乗客から何度も賛嘆の声が上がりました。
帰りには持てるだけの土産を買い込み、東京に戻りました。そんなことくらいしかできない訪問でしたが、暮れゆく東北を後にしながら人並みの寿命であれば、年に1回としてもあと20回は来れるかな、との考えが頭に浮かびました。
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先週末は今年度初めて担当する授業のための準備をしていました。教材も新たに用意する必要がありました。
創作について語るもので、そんなものが授業になるのかと頭を抱えましたが、自分の創作活動も紹介しながら「創作とは」を正面から取り上げました。
150名近い学生をスライドなどを使いながらも眠くならないような授業をするのは大変です。こちらにエネルギーがなければつとまりません。
私の創作について話すとなれば、いくつもの重要な出会いに触れなければなりません。そのひとつである古典については絵画ばかりでなく、さまざまな領域の作品との出会いについて紹介しました。
私が人物画を続けようと思ったのは学生の時です。漠然と、ではありましたが、どのような表現に変わろうと一生取り組んでみようと決めたのです。しかし、ある出会いがそれをもっと強い動機に変えることになりました。
それが天平仏です。若い私はその聖俗、喜怒哀楽、老若や性をも超えたような奥深い表情に深く傾倒しました。これを絵画的にどのように再解釈するのか、できるのか、それが私の一生の課題になりました。
大学で実施する古美術研究旅行では東大寺、興福寺、新薬師寺、秋篠寺、聖林寺、室生寺、法輪寺などなど、写生の機会を与えられました。今はそのような特別許可も難しくなっています。ともかくも毎年学生とともに訪れる奈良で私はスケッチを重ねました。
興福寺国宝館などでの天平仏のスケッチはその中でも特別な時間でした。そのことを授業の中で話そうかと、ひさしぶりにスケッチを引っ張り出しました。
拙い写生もありますが、数十年描き続けた天平仏たちです。私の人物表現に絶対的な影響を与えた出会いです。
ひととおり小難しい話などもしましたが、授業の最後に学生たちに伝えたことがあります。
それは、創作に生きるのであれば、「努力」「根性」「忍耐」「勇気」が必要だと。
才能や感性が問われる世界にはなんとも異質な言葉かも知れません。しかし、それなしに創作の道は開けないことを知ってほしかったのです。
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新年度の授業が始まりました。
今年は桜満開の中でのスタート。記憶に残るに違いありません。
桜が似合うと言えば新入生です。
自分のその頃を思い出すと、やはり何もかもが新鮮だった記憶がよみがえります。
先生方も思ったほど怖くなかった!
そういう、浮き立つような思いもわずかの間で、あとは本当に悩み多い日々でした。
先日、新入生にはこう話しました。
「時間がない、研究が大変など、絵を描かない理由、絵が描けない理由は周りにいくらでもある。
絵を描く理由は自分の中にしかない。」
美術大学を目指した学生に絵を描きなさいなどというのはまったくの諧謔と思われるかもしれませんが、特に研究と両立しなければならない保存修復の学生にとっては、十分、心すべきことなのです。
そして、これはそのような分野の学生に限ったこととも言えません。多くの美大生が念願の大学に入った時から、向きあうことなのです。
絵を描けない理由は人によって様々です。その奥には結局は絵を描くつらさ、苦しさが潜んでいます。
しかし、皆、絵に喜びを感じ、支えられてきた経験も確かなはずです。
大学の日々はその理由を確かめ、そして改めてその理由を確立する時間です。
もうひとつ伝えたかった言葉があります。
それは、「作品も独り歩きする」ということです。
美術は形が残るものです。そこに付随する言葉はやがて失われておかしくありません。
作品はたったひとりで残り続けます。摸写も同様です。
作品として残るありがたさがあり、怖さがあるのです。
これは新入生ばかりでなく、絵を志す全ての若い人に伝えるため、そして自戒の言葉として書いておきます。
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「美術の窓」への寄稿
寄稿の依頼を受けて美術雑誌「美術の窓」2012年4月号に膠に関する小論を執筆しました。
三千本膠の代替品は様々なものが出まわっており、その良し悪しについて知りたい、という要請は高まっているでしょう。
製品それぞれにつくり手の思いや思想が反映されており、その真摯な取組みはユーザーにとってもありがたいことと受け止めています。しかし、その性格の違いをわかりやすく把握するための共通の基準、あるいは目安づくりは今後の課題です。
私は安心して使える膠の要件として
1.保存性と情報公開
2.ユーザーと生産者、研究者の連携と情報交換
3.持続可能性
を挙げて提案しています。
できれば掲載誌に目を通してみてください。
膠研の産地調査

3月末に再度姫路への調査に赴きました。
今回は膠文化研究会(膠研)としての初めての調査となり、3日間にのべ10名を超える作家、研究者、学生が参加しました。
調査結果については膠研のホームページやフェースブックページでお伝えしてゆきます。
今回の調査で個人的に改めて感じたことは、言うまでもないことですが膠は皮革製造における副産物であるということです。
姫路に通ううちに、日本の皮革製造が世界に誇れる最高峰の技術と伝統を有することを理解するようになりました。その高度な技術が膠製造を確実に支えていたのです。
皮革産業はあらゆる意味で膠の母胎であり、膠の今後には、その再生と高い技術の導入の成否が深く関わっています。
そのために尽力されている人も、ネットワークも、数はすくないものの産地に集まっています。
産地の保護こそ膠の将来を左右する、との私の最初の直感は間違っていなかったと思いますが、膠の奥行きは深く、まだ未知のことばかりです。
結局、ものごとはその原点、起点へ肉薄しないと見えて来ないという実感を持ちつつ、今後の研究に思いを巡らせています。
さらに言い添えねばならないのは、安易に三千本膠すなわち絵画用膠としてきた膠に対する理解を多分に転換しなければならないかもしれない、ということです。
このことについてはユーザーである作家、修理技術者にできるかぎりわかりやすく情報提供を行うのが膠研の最大の任務だと考えています。
膠研も新年度を迎えて体制を整備しつつ、活動の充実を図ることにしています。
まだ、ささやかな動きではありますが、あくまでユーザーの視点に立って、膠文化の研究と膠技法の普及を図ることを原点に据えています。
環境問題の中でやはり危機感を持って注視すべき欧州の膠製造についても、是非調査したいと考えています。
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大きく出たな、と思われるかもしれませんが、ここで大上段に論陣を張るつもりも能力もありません。
毎週のように飛行機に乗りますが、自然と機内誌をぱらぱらと見るわけです。その中には美術に関するものもあります。
最近、ちょっとした話題になっている連載もよく読んでいました。
フェルメールに魅せられた科学者が全作品を巡るもので、精緻な分析と巧みな文章は読み応えのあるものでした。
しかし、、、どうも、見方が精密過ぎて胸につかえてしまうのです。例えが適切かどうか分かりませんが、好きな彼女だったら、その細胞も好き、というような。
読んでいるうちに、フェルメールの絵画全体は意識からすっかり疎外されてしまっています。
こういう愛し方もあるのですねえ。
--
もう一本の連載はある学芸員の方が若手美術家を紹介する、というものです。
こちらは、褒めたいのか、批評したいのか、ともかく言葉がなかなか作品に近づきません。まさに言葉が漂流している印象です。
周辺の美術の状況や、作品についても当たり障りのない「印象」、「解説」で記事が埋まり、どうも意図的に核心をそらしているような気さえします。
もしかすると、このような全く熱のない文章も、有力美術館の学芸員ならではの大人の対応なのかもしれません。
ただ、読むものとしては、興味がないなら取り上げたり、書いたりしなければいいのに、と思ってしまいます。
空の上で出会った全く対照的な美術をめぐる言葉。
美術と言葉、この両者の関係も複雑で、さまざまです。
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突然ですが
思うことあってクルマの話です。
昭和30年代に生まれた男の子にとってはクルマは豊かさの象徴であり、憧れでした。今の若者はあまり関心がないそうですが、その分析は誰かに任せておきます。
私自身は物に対する所有欲が希薄なようで、コレクション趣味などもほとんどありません。しかし、気に入ったクルマを持ちたいというくらいの気持ちはあります。
高度成長期、バブルの時代はクルマも虚栄心を満たすものでしたが、十分に物質的に恵まれ、そして低成長の時代ともなると、もはやクルマも実用優先で選ばれるようになったようです。
それでもクルマは庶民が手にできる最先端の技術とデザイン力の結集であり、ひときわ総合力が求められる工業製品として、所有欲を満たす存在としてはいまだその頂点に君臨しているでしょう。
アメリカのパワフルで、豪華で、そしてマッシブなクルマに対して日本のクルマはコンパクトで環境にやさしいという方向性を見出し、いつの間にか世界の中で大きな存在となりました。
最近はフォロワーたちの追い上げで大変なようですが、そうした新興国ばかりでなく、アメリカまでもがお手本として日本のクルマを意識するのですから時代は変わりました。
今のクルマはどれも優秀な製品だと思いますが、やはり好き嫌いはあります。それがあるから持つ楽しみがあるのでしょう。
本田宗一郎の夢
本田宗一郎という人について私がここで改めて書くことはありませんが、ホンダの社風にはとても共感を寄せていました。
自動車メーカーとして後発であったホンダは奇抜とも言える手を次々に打ちます。それは官僚の作った規制や先発企業の政治がらみの圧力との戦いでもありました。
また最初から世界を意識していたこと、モータースポーツを出発点とするという点で他の国産自動車メーカーにはない歴史を持っています。

Honda S500 Wikipediaより

Honda Jet

旧エンブレム
本田宗一郎はクルマだけでなく、いつかは飛行機を作りたいという夢を持っていたようですが、結局、彼の死後、2006年になってHonda Jetが発表され、2010年には量産機の生産開始を果たしています。ホンダのエンブレムに翼がついているのは、こうした創業者の思いが込められているといいます。
もう、40年近くも前になりますが、ホンダを意識するようになったのは、ちょっと変わったきっかけでした。
その当時、都内で見る外交官の車がなぜか皆ホンダなのです。公用車ではなく、所謂マイカー(今や死語?)ですが。
同じころ、初めての海外旅行で欧州を旅しました。今、外国で日本車を見ても驚くには当たりませんが、そのころフランスなどでその姿を見ることはほとんどありませんでした。しかし、ホンダは例外でした。
ホンダはすでに2輪で何度も世界を制してはいましたが、自動車製造に参入したばかりの64年、いきなりF1に参戦すると翌年には早くも優勝を果たしてしまいました。
F1挑戦第2期とされる80年代にはエンジンサプライヤーとして無敵の強さを誇り、ホンダが勝つたびにレギュレーションが変更されるという伝説を作ったのでした。アイルトン・セナとホンダの理想的なカップルを記憶に留めている人も多いでしょう。
それを考えれば欧米の人々がホンダに憧れるのは当然だったのです。

初優勝を果たしたRA272(ホンダコレクションホール所蔵)
Wikipediaより
ホンダの作るクルマはちょっと変わっていました。往年のCITYやバモス、ステップバンなどは今でも十分魅力的に見えます。
そして傑作車シビックの登場でホンダはクルマの世界でもワールドブランドになったと言っていいでしょう。
初代も好きでしたが、ワンダーシビックと言われた3代目は自動車として初めてグッドデザイン賞を受賞しています。そして、アコードも世界で成功を収めました。
ホンダの設計思想は「マン・マキシマム・メカ・ミニマム」。
そのデザインは常に日本車のレベルを引き上げてきましたし、豪華さや見栄のためのそれではなく、クレバーな印象を与えるものでした。
技術力でも環境性能において面目躍如たるものがありました。1970年、アメリカの大気浄化法改正法(通称マスキー法)は達成不可能と言われた厳しい排気ガス規制案でしたが、これを世界で初めてクリアしたのはホンダが開発したCVCCエンジンだったのです。
次のクルマはどうしよう
私の最初のクルマは叔父からただで譲ってもらったトヨタ・コロナの中古商用車。リッター4kmぐらいしか走りませんでした。次も親に援助してもらったミツビシのライトバンでした。
ようやく自分でクルマを買えるようになってからはずっとホンダです。一時をのぞいて、家にはいつも2台のホンダがありました。アコードワゴンとプレリュード、というように。
徐々にクルマも走ればいい、という感覚になり、頻繁に買い換えることもなく、今のクルマも随分長く乗っています。それでも、次は何にしようかと考える時は少しはときめきます。しかし、、、今、ホンダに欲しいクルマがなくなってしまいました。
それも買い替え時期がずるずると延びてしまった原因のひとつなのです。
数年前、シビックがハイブリッドシステムを載せるというので食指が動いたのですが、デザインを見てやめました。ホンダに何が起こっているのか、、。
以前のホンダにあった開拓精神、挑戦者の気概は今、マツダやスバルのクルマにこそ感じます。
いつも翼を
クルマの専門的な面から見た良し悪しや企業体質の変化など、ホンダを論ずる記事などは探せば出てくるでしょう。それを私が改めて取り上げる気はありませんが、ホンダファンとして一言ぐらいは言いたくなります。
例えばシビックはフォルクスワーゲンのゴルフのように、ホンダを代表する車種です。
売れるクルマづくりも必要ですが、こうしたブランドを代表するクルマづくりがこのところあまりに中途半端でした。
ホンダはドリームという言葉がよく似合う会社です。ホンダのエンブレムの翼はその自由な夢に向かって飛び立つために必要なのでしょう。
S2000も製造中止になってしまいましたが、ホンダさん、エコで楽しいライトウェイトスポーツカーでも作りませんかねえ。
UPDATE: 2012/02/19 14:12
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ふたつの会
もう正月気分はありませんが、今更ながら年明けを少し振り返ります。
1月はいくつかの新年会や会食がありました。
印象に残った会がふたつあります。
ひとつは院展の新年会。理事長松尾敏男先生の挨拶を印象深くお聞きしました。
これは次の機会に。
そして、もう一方の会は院展広島展のオープニングで主催者と会食した時のことです。おめでた気分の残る中での院展開幕は広島での正月の風物詩になっています。
ヒロシマから見える原発事故後
主催者との会席では楽しいながらも深く考えさせられる話も聞かせていただきました。
私も広島の大学に赴任して13年目になろうとしていますが、市民としてこの街の歴史を分かち合うには短すぎる年月です。
しかし、やはりこの地に通わねば分からなかったことも多くあります。
会での話は自然と震災、そして原発事故のことになりました。
ヒロシマから見る原発事故後は、私もうすうす感じている展開になりつつあります。
詳しく書けばいくら字数を尽くしても足りませんが、まず、放射能汚染やそこからの復興について、正確な知識を得ようとすれば今日ではいくらでもその手段があるということです。
一方で放射能汚染の影響については専門家の間でも意見が分かれています。正確な、とは言っても未だその実態に計り知れないところもあることは致し方ありません。
その情報源のひとつがネットということになりますが、正確に、冷静に物事を見極めようとする多くの人がいる一方で、不安に駆られ、猜疑心ばかりを肥大させてその思いをネットにぶつける人もいます。
むしろこうした人の方がネットの影響力を計算して発言を「拡散」させようとしているようです。
私が心を痛めるのは、やはり放射能の影響について心ない流言を広めようとする人がいることです。
確かに放射線は遺伝子の二重連鎖を傷つけることが知られています。その修復過程でがんなどを引き起こすケースのあることも分かっています。
その「傷」が世代を超えて「遺伝」するという流言はヒロシマの時にも広まりました。
ここに書いてよいものかどうか、迷いますが、戦後「広島の女は嫁に取るな」と言われたそうです。
福島原発の事故でも、多くの広島の人々を苦しめ、そして日本人自らの誇りを傷つけたこのデマがまた繰り返されようとしているのではないかと案じています。
震災の次にくるもの
「震災の次に来るもの、それはこうした人が人を傷つける差別であり、偏見です。」
放射能障害によるがんの発症を人間の敗北であるかのように書き立てることも差別以外の何者でもありません。
敢えて言えば、よく取り上げられる甲状腺がんも治療実績は豊富で、死亡率も高くはありません。
病気だからといって人間の尊厳を貶めることはあってはならないのです。
このことについては少しずつ書かねばならないと思っています。
それは淡いながらもヒロシマに関わった私が言うなれば「言葉の暴力」に敏感にならざるを得ないからです。
困難な経験の少ない若い世代が、今の状況に戸惑っていることは理解できます。
しかし、度を失った狼狽ぶりは心配です。
傷ついた日本を癒すには若い力が必要です。自分たちの土地を愛する心をもつ若者しか頼りはないのです。
UPDATE: 2012/02/1110:46
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先週末、大相撲の新大関となった稀勢の里の披露パーティーに出かけました。都内でも屈指の大きさのボールルームが満員でした。1500人ほどの人がいたそうです。私は最前列のテーブルに案内され、大関琴奨菊関と同席でした。隣の上座のテーブルには横綱白鵬関の姿がありました。

なぜ、絵描きの私がこんな場違いなところに招かれたのかというと、タイトルのとおり、稀勢の里の大関昇進を記念する化粧回しをデザインしたからなのです。
依頼は大関の後援者Sさんから画商さんを通じてありました。私の作品も所蔵されていることから、今回の話になったようです。
稀勢の里の活躍は以前から見ていたものの、大した相撲の知識もありませんでしたが、これも何かの縁と、お引き受けしたのです。
後援者のSさん自らも拙宅を訪れ、化粧回しについて構想と思いを伝えてくれました。デザイン決定までにいろいろとあったのですが、結局は私が最初から取り上げたかったモチーフを中心にすることになりました。
この依頼を聞いた時、力強さを象徴する存在としてすぐに奈良時代の力士像が浮かびました。
学生時代に初めてスケッチして以来、30年にわたって描き続けてきた天平時代の仏像群は私に大きな啓示を与えてくれた、創作の原点とも言える造形です。
毎年のようにデッサンを続けてきたこうした仏や天部、弟子像ですが、実は作品にしたことはありません。
理想は東大寺の執金剛神立像でしたが、この像は秘仏です。年に1回、1日のみの公開で、例年大混雑。狭い通路から覗き込むように見るほかなく、とてもデッサンなどできません。
そこで何度もデッサンをしていた新薬師寺の十二神将像から伐折羅(ばさら)大将を選びました。十二体あるのに、なぜか伐折羅を描いた回数が圧倒的に多いのです。これも大好きな像ですので、構想はあっという間に決まりました。
ちなみに寺伝では伐折羅大将ですが、迷企羅大将として国宝指定されています。
長年の取材が思わぬ形で世に出ることになりました。
デザインが決まったのは昨年の暮れも押し詰まっていましたので、正月三が日はこの原画制作に費やしました。
織物になることを計算して、普段の作品のように淡い色調や細かい階調は避けて、平面的で強い印象になるよう心がけて図柄にしました。
図柄はSさんの思い入れを何とか受け止め、その上で様々な趣向を込めました。
料紙のイメージを虚空に見立てて、切金の代わりに勝ち星の15の星を散らしました。大きな星は「心、技、体」、そして一番高い星は「横綱」という目標です。
星の世界を飛ぶ鷹の羽に稀勢の里の大関決定直前に急逝された師匠、故鳴戸親方と恩義あるおかみさんを乗せて高い星まで届ける、というのがこのデザインのストーリーです。
画題は「金剛心」にしました。伐折羅大将のごとく、「金剛不壊」の心で横綱を目指してほしいものです。
さて、化粧回しは今回のパーティーでお披露目の運びでした。
実は一応、化粧回しは織り上がっていたのですが、完成品は次の場所にお目見えするまでお待ちいただきます。
勿体つけてしまいますが、やはり原画を織物へ変換する過程を踏まえてよりよいものを目指すことになったのです。
私の役目はもう終わっていますので、私自身もその出来映えを楽しみに待つことにします。
今回の仕事は思いの外注目を寄せていただきました。稀勢の里が皆に愛されていることを改めて感じました。

会場に集った多くの人が、日本人横綱への期待、いろいろな問題で揺れている大相撲の信頼と人気の回復を大関の活躍に託す気持ちを持っていたでしょう。
そして、伝統を引き継ぎながらも新しい時代を切り拓く力強さを日本人として共有したい、という思いが満ちていたように思うのです。
若い時から稀勢の里を支援してきたSさんの顔には終始誇らしくうれしそうな笑顔が浮かんでいました。
-
新聞記事のリンクです。
中国新聞「金剛心まとい綱とりを」
サンケイスポーツ「超異例!稀勢、師弟愛の新化粧まわし」
時事通信「親方のような横綱に=稀勢の里の昇進祝賀会-大相撲」
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